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2024年2月21日水曜日

太宰府路散策(第2回)(4)

 
 大宰府政庁跡でヨガを楽しむ人々
平和だ

坂本八幡宮、梅花の宴はここで?
我が岡にさ牡鹿来鳴く初萩の・・・

紀卿万葉歌碑
正月立ち春の来たらばかくしこそ・・・
楝(センダン)の花
妹が見し楝の花は散りぬべし・・・
(旅人の亡妻を偲ぶ)
長屋王邸跡
 奈良大宮ロータリークラブ45周年に行った際、長屋王邸跡。聖武系の皇位継承に不安が生じたなか、藤原四兄弟が長屋王家を抹殺(長屋王の変)。
戒壇院。天下三戒壇の一つ
 裏に僧玄坊のさびしい墓がある。玄坊は吉備真備とともに出世したが、これを除こうとして九州・大宰府で藤原広嗣が乱を起こした。乱は失敗(この時、大宰府政庁跡は焼けてしまっている。)。しかしその後、藤原仲麻呂の台頭にともない、橘諸兄が失脚して、玄坊も観世音寺別当に左遷。

 藤原氏が王族を含む他勢力を排除していった結果が藤原北家の隆盛、北家のなかでのさらなるバトル、その末裔である藤原道長の隆盛。父兼家にあっては、王族どころか花山天皇まで排除してしまう。藤原四兄弟、藤原広嗣、藤原仲麻呂の時代も似たようなものだったのだろう、当時の貴族の日記が残っていないだけで。

 それに引き比べて、旅人の時代の梅花の宴や亡妻を偲ぶ歌、はたまたいまの時代に大宰府政庁跡でおこなわれているヨガ教室のなんと平和なことよ。

2024年2月20日火曜日

太宰府路散策(第2回)(3)

 




 大宰府政庁跡に到着。南門跡をぬけ、中門跡に立つ。いつもながら広々としてヌケ感がすごい。背後の四王寺山・大野城ととりあわせて、おだやかな気持ちになる風景だ。

右手大宰府展示館へ向かう。展示館前に教科書にのっていた有名な万葉歌の碑がある。

 あをによし奈良の都は咲く花のにほうがごとく今盛りなり 小野老

大宰少弐として着任した際の歓迎宴で詠まれた。先の大伴旅人とほぼ同時期。歌の趣旨も旅人が着任の際に詠んだ歌と同旨か。大宰府の官人たちへの挨拶。奈良の都は花盛りに栄えていましたよ。

政庁跡の北西角、坂本八幡宮に向かう。大伴旅人邸跡と推定されている(可能性の一つ)。仮にそうだとすれば、万葉集の「梅花の宴」はここで催されたことになる。

「梅花の宴」には前書きがある。このあたりが令和の里と呼ばれるゆえんである。

 初春の令月にして、気淑く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披き、欄は珮後に香を薫らす・・

「梅花の宴」収載の三十二首もここで詠まれたはず。このあたりには先の三十二首のうち、いくつかの歌碑がある。まず巻頭歌。

 正月立ち春の来らばかくしこそ梅を招きつつ楽しきを経め 紀男人

主人である大伴旅人の歌(8番)

 我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも

筑前国守であった山上憶良の歌

 春さればまづ咲くやどの梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ 

坂本八幡宮から東、観世音寺へ向かう。左手に旅人の歌碑がある。

 世の中は空しきものと知る時しいよよますますかなしかりけり

妻を亡くした後の歌だ。山上憶良も追悼歌を寄せている。

 大野山霧立ち渡るわが嘆く息噎の風に霧立ちわたる

大野山はいまの四王寺山(大野城)のこと。四王寺山に霧が流れると、旅人の嘆きが立ちわたってくる。

2024年2月19日月曜日

太宰府路散策(第2回)(2)

 

 御笠山の名は宝満山になっている。それでは御笠川の名も宝満川になってよいのではないか?もっともな疑問であるが、宝満山南部に発し、南のほう筑後平野へ流れ下り、筑後川と合流する川の名が宝満川となっている。そのせいか、こちらの川は御笠の名を残している。

朱雀大橋を歩いて、御笠川を渡る。渡り終えるとすぐ左手に歌碑がある。

 大君の遠の朝廷とあり通ふ 島門を見れば神代し思ほゆ 柿本人麻呂

この歌には万葉集に題詞がある。「柿本人麻呂の筑紫国に下りし時に、海路にして作れる歌」。筑紫への海路・海峡を見れば、古事記にあるイザナギ・イザナミによる筑紫の国産みの時代が思い起こされるなぁ、筑紫の神さま海路の安全を頼んます。

この場所になぜ、このような歌碑が?この謎は歌碑の裏に回ればすぐ解ける。そこに大宰府正門(朱雀門)の礎石があるから。そして、朱雀大通りの北を見れば大宰府政庁(=遠の朝廷)跡が見えている。島門(海峡)ではなく正門であるが、たしかに大君の遠の朝廷とあり通ふ門なのである。

正門は平城京・平安京でいえば羅城門である。聖俗の境界。鬼も出る。芥川龍之介の小説『羅城門』の舞台にもなれば、黒澤映画「羅城門」の舞台にもなる。

朱雀大通りをはさんで両側にこの礎石があったとすれば、とても大きな門である。VRがあれば、ここから大宰府政庁の豪壮な建築を見ることができるだろう。そこからいまは住宅地になっているところを2ブロック歩くとようやく大宰府政庁跡に到着。

歌碑探しゲームをかねていたところ、参加の子どもが歓声をあげる。三叉路になっている政庁跡の信号をわたると、右手にまた歌碑がある。

 やすみししわが大君の食す国は大和もここも同じとぞ思ふ 大伴旅人

60歳をすぎて大宰帥として大宰府に赴任したときの歌である。九州にやられたけれど、都もここも同じだと思う。赴任時の気概とも、やせがまんともとれる歌である。

妻・大伴郎女をともなっていたが先立たれる。それ以後つくられた、酒を誉め、妻を偲ぶ歌が多数、万葉集に残されている。妻に先立たれなければ、ただの官人に終わったかもしれないが、そうでないところが人生と歴史の妙である。

2024年1月28日日曜日

奈良大宮ロータリークラブ45周年(3)

 

(朱雀門広場)


(朱雀門前から奈良公園・若草山方面を望む)


(朱雀門)


(朱雀門と生駒山)

 奈良大宮ロータリークラブ45周年式典・祝賀会の翌朝、JR奈良駅ちかくのホテルから朝の散歩。平城宮跡・朱雀門まで往復した。片道30分、往復60分。約6000歩だ。

天気予報では大雪が警告されていたが、すくなくとも奈良市内は静穏だ。雪の降る気配はないし、どこにも積雪のあとはない。寒風も感じられない。

二条大路を西へ。途中、新大宮駅、奈良市役所、きのうの会場である奈良県コンベンションセンター、マリオットホテルなどを見ながら向かう。

行く手には、ずっと生駒山(642m)。奈良県と大阪府の境にある。日本書紀によれば、麓で神武天皇と長髄彦(ながすねひこ)が戦ったとされる。ぼくの思い出は子どものころ、メンテナンスの怪しい古いジェットコースターがギシギシいうなか乗ったことだ。

平城宮の手前、ショッピングセンターの一角に長屋王の屋敷跡があった。発掘時のニュースが思いおこされた。

まもなく平城宮跡(特別史跡)に着いた。朱雀門広場が広い。大宰府政庁跡も広いが、やはり本場はちがう。朱雀門の前からは奈良公園側(東側)に若草山を望むことができた。逆(西側)には、もちろん生駒山。

朱雀は南を守る神獣。大宰府政庁の南にも朱雀大路跡がある。ちなみに、北は玄武、東は青龍、西は白虎だ。

朱雀門の北には、近鉄線越に第一次大極殿を見わたすことができた。その手前右には何かの復旧工事中だった。

さて集合事件まで残り時間もわずか。いったんホテルに戻ろう。

2023年10月18日水曜日

太宰府路散策(2)展示館、学業院跡

          


 政庁跡には礎石が置かれているのであるが、レプリカである。むかしはプラスティック製のものを置いていてブカブカしている時もあった。

実物は2mほど地下にある。発掘調査をおこない、2mほど掘り下げたところ、いま見るような礎石群があらわれたのである。つまり、年間2mmほどずつ土砂が堆積を繰り返していて、約1000年の間に礎石群のうえに2mほどの土砂が堆積しているのである。

そのことは、南西角にある展示館にいけばよく分かる(いつの間にか有料になっていたが。)。館の内部、左右は地層を掘り下げたままになっていて、掘るとどうなるかがよく分かる展示になっている。2mほど地下にゴロリと置かれたままの礎石や溝の遺構をみることができる。

展示館のまえで休憩していると、高齢の男性、つづいて女性が設置されている台の上でスタンプを押していく。訊くと太宰府市がおこなっている事業で、スタンプが集まると3000円の商品券やお米がもらえるのだそう。なるほど。われわれはアプリの景品を期待して歩いているところ、太宰府市の高齢者は商品券やお米を期待して歩いているのか。

展示館の北西角には、都をしのんで歌った小野老の有名な歌の碑がある。

 あをによし奈良の都は咲く花の 薫うがごとく今盛りなり

展示館の前を通って東へ向かう。この通りにはセンダンが植えられている。またの名を楝(あふち)の木。おそらく筑前守であった山上憶良のこの歌にちなむものだろう。

 妹が見し楝の花は散りぬべし 我が泣く涙いまだ干ぬ

これは大伴旅人の妻が亡くなったときに、旅人の気持ちになって詠んだ歌。四王寺山の霧に仮託したつぎの歌もおなじ。

 大野山霧立ち渡るわが嘆く息嘯の風に霧立ちわたる 

通りの左手には故冨永朝堂先生のお宅がある。太宰府天満宮・延寿王院前の「神牛」の作者である。

そのあたりからは宝満山が大きくのぞめるようになる。ことしは国の史跡に指定されて10年となる。大宰府政庁跡の東北、鬼門の方角である。

平安京の鬼門は比叡山であり、鬼門の押さえとして延暦寺が置かれた。大宰府の鬼門は宝満山であり、鬼門の押さえとして竈門山寺・竈門神社が置かれている。

さらに東に行くと学業院跡である(国史跡)。古代、大宰府の官人要請が行われたという。太宰府は現代、学園都市になっているが、このような伝統のゆえであろうか、それとも天満宮のご利益を期待してのことであろうか。

手前には、山上憶良の有名な子等を思ふ歌の碑が建っている。親子の情愛は古代から変わりはない。

 瓜食めば子供念ほゆ 栗食めばまして偲はゆ 何処より来たりしものぞ 眼交にもとな懸りて 安眠し寝さぬ

 銀も金も玉も何せむに まされる宝子に如かめやも

学校で習った。小6に訊くも習っていないという。中学で習ったのだったか。

またそこには天満宮の斎田があり、ちょうどこの日、抜穂祭がおこなわれていた。このごろはコンバインによる収穫風景しかおめにかからなくなったが、むかしながらの鎌による稲刈り。なつかしい。

その先入ったところは昨年、アナグマ三兄弟の巣があったところだ。

2023年10月17日火曜日

太宰府路散策(1)坂本八幡宮、大宰府政庁跡


 土曜日はわが事務所のアクティビティ同好会で、太宰府路を散策した。同会は基本的に自主練で、アプリをつうじて各人の活動状況が知れるというもの。今回は初の合同参加企画となった。

午前10時に西鉄都府楼前駅に集合。ときどき雲に覆われるも秋晴れの晴天であった。子ども2人(小6と6歳)を含む総勢5人で出発。ときおりキンモクセイが香り、秋の気配濃厚である。

同駅の近くには刈萱の関跡があるのであるが、メンバーの要望で省略。むかしは大宰府政庁への出入りは自由でなく、関所で検問が行われたのであろう。刈萱は説経節の石堂丸になっているし、関屋の地名のもとになっている。

水城小学校・学業院中学校前を通り、坂本八幡宮へ。八幡宮は、令和のゆかりの地として全国的に有名となった。

それは、八幡宮が大宰府(太宰府ではない。)政庁跡の北西角にあり、大宰帥(大宰府の長官)であった大伴旅人の屋敷跡の候補地の一つとなっているからである。

そのころの文献はあまり残されていない。じゃなにが根拠かというと万葉集の一節である。

万葉集によると、大伴旅人は、九州の官人を集めて、梅花の宴を催した。そのなかには筑前国主の山上憶良もいた。

そのときの歌が32首残されている。その序文にこうある。

 初春の令月にして 気淑く風和らぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫らす・・

「このなかに令和が隠れている、令和をさがせ!」
子どもたちは、すかさず探しだした。

八幡宮前からは四王寺山の登山口への道がのびているが、きょうは山へはいかない。裏の田畑側から政庁跡へ。

畔道からバッタがつぎつぎと飛び出していく。ハーモニカの演奏をしているグループや虫取りをしている親子がいる。

大極殿跡で記念撮影。奈良の平城京跡は建物が復元されているけれども、こちらは礎石のまま。ぼくはこちらのほうが好きだ。イメージを触発されるし、広々とした空間が開放感を呼ぶ。

                                      続く。

2023年4月3日月曜日

雉も鳴かずば撮られまい

 

 大宰府政庁跡あたりを歩いていたら、桜もそろそろ終わりで、桜吹雪が散り敷いていた。すると、ギャギャッという動物園で聞くような鳴き声が。

一瞬、猿かなにかと思ったが、よく考えてキジだと思い当たった。このあたりでキジにであうのは3回目である。出会わないけれども、鳴き声だけ聞こえたことも2度ある。

鳴き声のしたほうへ接近していくと、左手方面から右手方面へキジくんが歩いている。かれもまたお散歩中のようである。

これまでは近づくと逃げてしまっていた。今回は3度目のせいか、ちかくまで寄ってもあまり逃げようとはしなかった。おかげで、かなり近くで写真を撮ることができた。

よく見ると、すごく派手だ。顔面は真っ赤。お面をかぶっているよう。歌舞伎役者も顔負け。デコルテには紫とエメラルドグリーンのチョーカー。胸のあたりはビロードような緑。背中は緑と茶でリズミカルなうろこ模様。そして尻尾が水平にピントのびて美しい。

あいにく吉備団子を持参していなかった。30分もあれば梅が枝餅を買ってこれそうだが、間に合いそうもない。残念ながら、鬼退治の家来にしそこねた。

雉も鳴かずば撃たれまい。あまりよい意味のことわざではない。たとえば、悪代官と越後屋が謀議をしている・・。

 越後屋:お代官さま、最近、神田町の佐平治のやつがわれわれのことをしきりと嗅ぎ回っていますぜ。

 悪代官:心配するな。始末するよう、配下の者にすでに指示しておる。

 越後屋:さすがお代官さま、手回しが早い。それにしても佐平治のやつ、雉も鳴かずば撃たれまいに。

みたいな。わがキジくんも鳴かなければ、写真に撮られることもなかったろう。つまり、キジも鳴かずば撮られまい。

ところで、キジはケーンケーンと鳴くといわれる。しかし、そうは聞こえない。さきに書いたようにギャギャッと聞こえる。動物の鳴き声というか金属音ぽいというか。

どちらでもよいかもしれないが、芭蕉の句があるので、そうもいかない。『笈の小文』に、つぎの句がある。

 ちゝはゝのしきりにこひし雉の声

笈の小文の旅中、杜国とともに高野山を訪ねたときの句。奥の院には戦国武将の墓がたくさんある。松尾家は武家でもはしくれのほうだったらしいが、その墓もあったらしい。

これには本歌がある。

 山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ

行基菩薩の詠という。ほろほろでないことは明らかだけれども、ケーンケーンなのか、ギャギャッなのか。句の印象はだいぶ違う。

後者の「鋭く哀切な響き」に芭蕉の父母への愛を感じるべきなのであろう。もちろん雉、雉鳴くは春の季語である。

2022年12月6日火曜日

大宰府政庁跡・四王寺山お鉢めぐり(1)

 



 
 四王寺山歩きは、だいたい大宰府政庁跡からスタートする。いまの行政区である太宰府市という場合は「太」を使うけれども、昔の行政区である大宰府をさす場合は「大」である。ちなみに「宰」はつかさどるという意味。大きくつかさどるのか、太くつかさどるのか。

いつもは南の朱雀の入口側から、四王寺山を背にした正殿跡側をのぞむ。けれども、この日は横から記念碑と西の藏司丘陵側をのぞんでみた。背後は月山丘陵。その影が前面を覆っている。藏司丘陵に日が当たってクローズアップされ、海に浮かぶ島のようだ。

九州は北部もだいたいシイ・カシの常緑広葉樹林帯だ。常緑広葉樹はまたの名を照葉樹という。香椎照葉はこれからきている(と思う。)

常緑樹(照葉樹)は冬も葉が落ちない。葉の表面がツルツルしていて、日光を反射して照るので照り葉。表面がクチクラと呼ばれる脂質ポリマーでキューティクルされている(クチクラとキューティクルは同じ語源)。

人の手が入っていないところはシイかカシの樹ということだ。冬も暗いめの色の緑の森を形成することになる。

大宰府政庁跡の西側の側道には、桜が植えられている。桜は落葉樹だ。春だけでなく秋の紅葉も楽しめる。路側にはすでに落葉がたまっている。東側から日が差し込み、路がゼブラ模様になっている。

西側の側道を北に詰めると、政庁跡の北西角に神社がある。令和の名の由来となったといわれる坂本神社である。大伴旅人が梅花の宴を催した大宰府の長官屋敷跡と推定されている地の一つ。発掘調査の結果は否定側に傾いているようだ。

その前をさらに北に進むと、四王寺山の登山道となる。途中で右に入ると岩屋城跡を経るコースもある。しかし、この道をまっすぐ登る。

途中、沢を登るところもあり、変化に富んでいる。四王寺山にはいくつも登山道があるのであるが、このコースは登りに利用するとよいだろう。下りだと、沢の部分は足下に注意が必要だ。

土塁のあるところまで登りつめると、そこからは稜線の周回路となる。いわゆるお鉢めぐりだ。周回路の両側の樹が道を覆い、トンネルのようになっている。ここでも日がまだらに射し、美しい樹影を見せている。

お鉢めぐりの周回路はよく踏まれていて、楽しい山歩きが楽しめる。ただし、ところどころ注意をしないと、いつのまにか意図したところとは違うところへ出てしまう。

周回路にはところどころ展望所が用意されている。南向きの展望所からは筑紫野や大野城市の市街が広がっている。その向こうには天拝山、九千部山、そして背振の山塊をのぞむことができる。そして青空。東側はレースのような薄雲がかかっている。開放感にすかっとする。

四王寺山は標高が400m程度なので、稜線部もだいたい常緑樹林帯がつづく。しかし、北側の小石垣城門跡から先まで行けば、紅葉が楽しめる。一つの枝の葉が、緑から黄色、橙・オレンジ、赤ととりどりに変化して美しい。そして一部に日が射し、部分的に輝かしている。

2021年10月20日水曜日

歩く瞑想(2)

 

 歩く瞑想といっても、目をつぶって歩くわけではない。五感をフル稼働させて、自然と交流しよう。大宰府政庁跡、空も大地も開放感がすばらしい。背後は四王寺山である。日本が白村江の戦いに敗れたあと、古代山城である大野城が築かれた。

 政庁の左奥には、令和の里として有名になった坂本神社がある。梅花の宴が催された大宰府長官邸跡と推定される場所の一つである。坂本神社の裏手には、古木が一つ残されている。蔦類にまとわりつかれているのか、間貸ししているのか。


 政庁のまわりは水路があり、セキレイのカップルが仲良く遊んでいる。ご先祖はイザナギとイザナミに性交の仕方を教えたという栄誉を与えられている。夫婦仲がよいのとしぐさが由来だろう。

 
 坂本神社のまえを四王寺山に向かうと登山口がある。しばらくいくとクサギの実がなっている。森の宝石のようだ。だが名前のとおり、葉をさわると臭い。美しいけれども臭い、人間でもそういう人がいる。つきあいが難しい。

 四王寺山は円錐ではなく、お鉢のようになっている。ぐるっと一周しよう。お鉢めぐりという。稜線にはツワブキがたくさん咲いている。ツワブキを見ると、いつも妻夫木聡→ロトセブンを連想してしまう。もうちょっと仕事を選べないものか。

 などと考えていたら、アサギマダラが優雅に飛来した。南は南西諸島から北は新潟あたりまで、長距離の渡りをすることで知られている。2~3週間まえには、フジバカマに群れていた。もうみな南の島に渡ってしまったのではないか。迷子かな。

 お鉢のうえには、たくさんの石仏がまつられている。三十三の観音様だ。観音様は三十三のお姿に変化し、迷えるわれわれを救ってくださる。こちらは千手観音様。
 
 山頂稜線からの眺め。正面は天拝山。道真公が都への帰還を祈った。すぐ下に大宰府政庁跡も見えている。よく見れば、左手にわが事務所も見えているはずだ。
 
 すこし下ると、岩屋城跡がある。高橋紹運が島津軍を迎え撃ち、玉砕した場所。兵どもが夢の跡だ。街中にある緑が水城跡だ。大野城から延びる尾根に接続している。右手の博多湾から攻めてくるであろう、新羅・唐の連合軍に対する備えだ。

 下山すると、観世音寺・戒壇院の裏に戻る。コスモスが揺れている。コスモスは秩序と調和の象徴だ。歩く瞑想により、心にコスモスを回復できれば、ありがたい。

2021年10月18日月曜日

天気予報が外れた日には


 「週末はまとまった雨が降るでしょう。」と栄作さんが言っていたので、先週末は遠出の計画をとりやめて、家ですごすつもりにしていた。ところが朝起きると晴れ間が広がっていた。栄作さん、またですか。

栄作さんの漢字がこれでよかったかなとグーグルさんに尋ねようとして、「天気予報 栄作」と打ち込むと、予測変換候補のなかに「天気予報 栄作 当たらない」というのがあった。ははは。

やむなく急遽、大宰府政庁跡ふきんから四王寺山まで散策することにした。いつもの定番コースである。

菩提樹の花のころ以外は素通りする戒壇院だけれども、あるポスターが目をひいた(このままでは小さいので、写真をクリックして拡大してくだされ)。そう、左端のポスターである。

真ん中に七色の丸が描かれ、上から時計回りに、五、隹、足、矢の4つの漢字というか、その一部が書かれている。さて真ん中にくる漢字は何?

答えは、口。そう、それぞれの漢字の一部に口の字をあてはめれば、吾、唯、足るを、知る、となる。有名な竜安寺のつくばいで知っている人も多かろう。知らない?こんど竜安寺に行ったときに、注意して見物してくだされ。

先日、ヘミングウェイの身体性のところで、マインドフルネスや禅の考え方との共通性を書いた。その際、禅の考えに関するこの点にも触れた。そのため、いつもは目をひかないポスターに視線が吸い寄せられたのである。

 若し諸の苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足を観ずべし。知足の法は即ち富楽安穏の処なり。知足の人は地上に臥すといえども、安楽なりとなす。不知足の者は富むといえども、しかも貧し。不知足の者は常に五欲のために牽かれて、知足の者のために憐憫せらる。是を知足と名づく(遺教経)。

計画していた遠出はできなかったが、健康に散策ができることに、心から満足することができた。おかげさま。幸せだ。

2021年6月10日木曜日

壺の碑(2)ー千歳の記念

 


東北にあるげなというけれど、どこにあるかは誰も知らない・・。インディー・ジョーンズの失われたアークみたい。

古代の遺跡は年間数ミリずつ土に埋もれていくので、1~2m掘らないと発見できません。発見されたとされるものも、偽物ではないかという疑いがついてまわります。

あの漢委奴国王と刻まれた金印も志賀島のお百姓が畑で発見したといわれているけれど、不自然、怪しい、偽物ではないかみたいな。

多賀城碑も、古代からずっとあったわけではなく、例のプチ・ルネサンスの流れでしょうか、江戸時代初期に再発見されています。それで芭蕉が訪れた際には、これが壺の碑だとされていました。

 壺の碑 市川村多賀城にあり。
 壺の石ぶみは、高さ六尺余、横三尺ばかりか。苔を穿ちて文字幽かなり。四維国界の数里を記す。「この城、神亀元年、按察使鎮守府将軍大野朝臣東人之所置也。・・」とあり。聖武天皇の御時に当たれり。

あれれ。坂上田村麻呂だったはずなのに、大野東人になっている。年代は桓武天皇の延暦20年(801年)のはずなのに、聖武天皇の神亀元年(724年)。胆沢城(岩手県)のはずなのに、多賀城(宮城県)。どうなってるの?

というわけで、いまでは、多賀城碑は壺の石文ではないとされています。昭和になって「日本中央」と書かれた石が青森県で発見され、そちらが本物なのだそうです(南部壺碑説)。

さて多賀城市は、太宰府市と姉妹都市。東の蝦夷に対する多賀城、西の隼人に対する大宰府政庁という関係だからです。多賀城跡も大宰府政庁跡も昭和になって発掘が進み、いまの姿がみられるようになっています。その前は畑か原野だったのだろうと思います。

ちなみに、多賀城碑を置いたとされる将軍大野東人、芸名のような名前です。彼はその後、藤原広嗣の乱を平定するため、九州、おそらく大宰府まで来ています。多賀城も大宰府政庁も、反乱と服属の歴史的舞台なんですねぇ。

奥州の歴史だけでも、蝦夷vs大野東人、アテルイvs坂上田村麻呂、陸奥の俘囚長安倍氏vs源頼義(前九年の役)、清原氏vs源義家(後三年の役)、奥州藤原氏vs源頼朝(奥州合戦)、伊達政宗vs秀吉・家康、伊達藩vs幕府(伊達騒動)という反抗と服属がいくえにも繰り返されています。芭蕉ははたしてどちら側だったのでしょうか。

ともあれ、江戸時代に芭蕉が見分したのは壺の石文ではなく、多賀城碑でした。歴史によくある皮肉ですが、芭蕉はその偽から蕉風の真実をつかみとっていきます。

 昔より詠み置ける歌枕多く語り伝ふといえども、山崩れ、川流れて、道改まり、石は埋もれて土に隠れ、木は老いて若木に代はれば、時移り、代変じて、その跡たしかならぬことのみを、ここに至りて疑ひなき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の喜び、羈旅の労を忘れて、涙も落つるばかりなり。

2011年4月6日水曜日

 歩かんね太宰府


 太宰府ロータリークラブの山歩き会で
 太宰府路を散策しました。

 ご案内は、「歩かんね太宰府」の
 冨永敦夫さんと杢尾幹雄さん。

 クラブの卓話を冨永さんにしていただいたご縁で
 こんかいの運びとなりました。

 コースは、観世音寺駐車場(集合)→宝蔵→講堂→戒壇院→学校院跡
 →冨永朝堂アトリエ→三十三茶屋(昼食)→太宰府政庁(都府楼)跡
  
 解説者も参加者も達者で、季節も最高
 いつもとちょっとちがう太宰府路に出会うことができました。