2023年9月13日水曜日

ある認知請求事件

 

 ある母から認知請求事件の依頼を受けた。認知とは親子関係があることを役所に届け出ることだ。認知心理学とかいう場合の認知とはすこし違う。

認知請求事件の依頼人は、基本的に未婚の母だ。結婚していれば嫡出の推定が働く(民法772条)。すなわち、妻が婚姻中に懐胎した子は夫の子と推定される。

父のほうは、妻に請求する必要はない。自分で役所に届け出ればよい。かくて認知請求は、未婚の母から父に対する請求という形をとる。

親子関係が確認されれば、養育費の支払義務等が発生するので、任意には応じない父もいる。

その場合、家庭内のことであるから、まず家庭裁判所へ調停を申し立てることになる。いわゆる調停前置である。

父が調停に応じてくれればよいが、父子関係を否認された場合、訴えを起こし、鑑定が必要になる。鑑定とは特別の知識・経験に基づく専門家の判定である。

ぼくが弁護士になったのは1986年だけれども、そのころは血液のABO型や父子が似ているかどうかというアバウトな鑑定だった(ドラマなどでも、父子じゃないという場面の根拠はたいがい血液型の違いだった。)。

しかしそれ以降、親子関係の鑑定技術は急速に発達した。いわゆるDNA鑑定である。それが日常実務レベルで使えるようにまでなったのである。

ワトソンとクリックが遺伝子(DNA)の二重らせん構造を発表したのが1953年。高校の教科書に掲載されたDNAのX線解析写真は2次元の対称的な斑点模様にすぎず、この映像からよく二重らせん構造に思い至ったものだと感心した。

2002年以降薬害肝炎裁判に取り組んだけれども、C型肝炎ウイルスが同定されたのは1989年である。それまで非A非B型肝炎とされていた。A型でもB型でもない肝炎という背理法のような定義であった。それが遺伝子レベルで同定できるようになったのである。

DNA鑑定が刑事事件に導入されたのが1991年。PCR法だ。そのころ以降、民事・家事事件にも順次DNA鑑定が導入された記憶だ。ただ当時は1件50万円くらい費用がかかったのではないかと思う。

ある議員さんから、故人のDNA鑑定ができるかどうか相談されたこともあった。遺髪を探してもらったけれども、DNA鑑定まではできなかった。

いまやドラッグストアの前を歩いていると、新型コロナのウイルス検査が1800円くらいでできるとうたっている。あれも立派な遺伝子検査だ。ただし、ウイルスなので、DNAではなくRNA検査である。安い。隔世の感とはこのことだ。

肝心の親子DNA鑑定の費用はというと、19,800円(ネット情報)。これまた安い。

https://seedna.co.jp/?utm_source=google&utm_medium=cpc&utm_campaign=dnatest&utm_content=cost&network=google_g&placement=&keyword=%E8%A6%AA%E5%AD%90%20%E9%91%91%E5%AE%9A%20%E8%B2%BB%E7%94%A8&device=&gad=1&gclid=CjwKCAjwu4WoBhBkEiwAojNdXote43J0ictQy8elJCR08QSGZ6Qz_u9IB-RucXLxKNkf2D6Ksa8ObhoCuVYQAvD_BwE

近時、婚姻関係でさえも不安定だ。3組に1組は離婚している。残る2組のうち1組も仲が悪い。SNSやマッチングアプリで知りあい、結婚。離婚相談の際、相手の親のことを尋ねると、会ったこともないという。2人の愛以外に結婚を支えるものがなにもない状態だ。

ましてや、婚姻関係のない父子関係を確認することに、どれだけの意味があるのか不安を覚える。でもやるしかない。認知された子どもの将来がすこしでもよいものになることを祈りつつ。

2023年9月12日火曜日

足利尊氏と九州(2)少弐と菊池と合戦の事

 

 『太平記』第15巻のつづき。少弐と菊池と合戦の事。
 
 菊池武俊は、元来宮方にて肥後国にありけるが、少弐が将軍方へ参る由を聞いて、路にて打つ散らさんと思ひければ、その勢3千余騎にて、水木の渡へぞ向かひける。少弐太郎は知らずして、小舟七艘に込み乗り、わが身は先づ向かひの岸に着きにけり。

※後醍醐天皇=建武の新政の側が宮方。新政から離反して都から追い落とされた足利尊氏の側が将軍方。尊氏の新政からの離反を元弘の乱という。九州では肥後もっこすの菊池武敏が宮方に、大宰府の少弐が将軍方についた。

※肥後もっこすは、熊本県人の頑固な性格をあらわす言葉。津軽じょっぱり、土佐いごっそうとともに、日本三大頑固の一つ。われわれの業界にもいる。議論で説得できないので、弁護士辞めろといいたくなる。

※水木の渡は、水城の渡。いまの水城と御笠川が交差するあたりにあったと思われる。水城堤防はいまよりしっかりしていたことだろう。御笠川の水量からして舟が必要とも思えないが、むかしはもっと水量があったのかもしれない。

※少弐太郎は頼尚。菊池や宗像との位置関係からして、左岸(西側)から右岸(東側)へ御笠川を渡ったのだろう(有智山城との関係は問題だけれども、有智山城→いまの竈門神社あたり→天満宮あたり→御笠川左岸を水城あたりまで進軍したのだろう。)。水城の辺は地元なのに、3千騎の敵勢に気づかなかったとはうかつ。

https://www.google.com/maps/place/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E5%BA%9C%E5%B8%82/@33.5184991,130.4940361,17.04z/data=!4m6!3m5!1s0x35419bb94ea9da4d:0x420ea1837d378fc4!8m2!3d33.5127734!4d130.5239685!16zL20vMDF3cTE1?entry=ttu

 阿瀬籠(あぜくら)豊前守は、未だこの方にひかへて、渡船の差しもどす程を待ちける処へ、菊池が兵3千騎、三方より押し寄せて、川中へ追つばめんとす。阿瀬籠が150騎、とても遁れぬ所なり、引かばいづくまで遁るべきと、一途に思ひ定めて、菊池が大勢の中へ懸け入って、一人も残らず討たれにけり。

 少弐太郎は、川の向かひにてこれを見けれども、大河を中に隔てて、舟ならでは渡すべき便りなければ、徒らに、憑み切ったる一族郎等どもの、敵に取り籠められて討たるるを見捨てて、将軍の方へぞ参りける。

※阿瀬籠は少弐の家来なのだろうけれども、阿=岸と瀬で取り籠められた武将という意味なので、『太平記』の作者の創作名かもしれない。太宰府へんで「あぜくら」という名は聞かないし。「この方」とは先に述べたとおり、西側の岸辺か。

※御笠川が少なくとも現在、「大河」とはいえないことは先に述べたとおり。家来を見殺しにした弁解として、頼尚が尊氏に述べた方便だろう。

※尊氏は宗堅大宮司の館にいたはずなので、頼尚は水城から宗像大社の辺までほうほうのていで逃げたのだろう。

  (引用はやはり岩波文庫から。)

2023年9月11日月曜日

うまやJR博多シティ店予約のこと

 

 二女家族がイタリアからひさしぶりに帰国したので、土曜日にJR博多駅周辺でランチをすることになった。三女も参加。

二女がひさしぶりの日本なので焼き鳥を食べたいという。そこで焼き鳥が食べられる店をさがし、アミュプラザ10Fの「うまや」に決めた。集合時間は昼12時。

https://www.jrhakatacity.com/gourmet/umaya/

三女が予約をしようとしたら、土曜の昼どきということで、予約を断られたらしい。三女がすこし早めに行って席を確保するという。

ぼくもすこし早めに着いたので、店へ行ってみた。予約不可と聞いていたので、「12時に4人集合になっているので、最後の4人席が埋まりそうだったら、店のまえにいるので声をかけて。」とお願いしてみた。

奥へ引っ込んだ美人店員さんは、しばらくして戻ってきて、「12時に4人、予約をおとりしますよ。テーブル席がよいですか、座敷がよいですか。」という。むろん、座敷をお願いした。

しばらくして三女がやってきた。経過をはなすと、しきりに憤慨している。「わたしが電話したときは、おじさんがでて、予約できんと言ったのに!」と。

「逆なら分かるよ。若い女性の言うことをおじさんが聞いてくれて、おじさんの言うことを若い女性が聞かんというのなら・・。どういうこと?」などとブツブツ言っている。

なんとなく良い気分だ。ときには美人店員さんがナイスミドルの言うことを聞いてくれてもよいではないか。えへへ。

2023年9月10日日曜日

足利尊氏と九州(1)宗堅大宮司将軍を入れ奉る事

 

 『極楽征夷大将軍』で書いたけれども、足利尊氏と九州との関係について『太平記』の記述を紹介したい(岩波文庫から)。

第十五巻。「宗堅大宮司将軍を入れ奉る事」

 さても将軍は、京都数ヶ度の合戦に打ち負けて、2月13日、兵庫を落ち給ひし・・筑前国多々良浜と云ふ湊に付かせ給ひける時は、その勢わずかに500人にも足らざりけり。

※多々良浜は、東区にある。JRだと筥崎駅の次は千早駅だけれども、その途中、多々良川を渡る。いまはアイランドシティで埋め立てられてしまったけれども、むかしはその河口付近が多々良浜だったのだろう。

多々良はたたら製鉄のたたら。もののけ姫に出てきた、あのたたらである。むかしは砂鉄がとれて製鉄が行われていたのだろう。

https://www.google.com/maps/place/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E5%B8%82%E6%9D%B1%E5%8C%BA/@33.6325244,130.4116117,13.58z/data=!4m6!3m5!1s0x35418e8029d1fd27:0x9f5eea1b2e1490b0!8m2!3d33.6358122!4d130.4210684!16zL20vMDd0N196?entry=ttu

 京都より始めて、処々の合戦に矢種は射尽くしぬ、馬、物具は、ことごとく兵庫を落ちし時乗り捨てぬ。・・

 宗堅大宮司がもとより、使者を進せて、「御座の辺りは余りに分内狭くて、軍勢の宿なんども候はねば、恐れながらこの弊屋へ御入り候ひて、暫くこの間の御窮屈を休めさせ給ひ、国々へ御教書をなされて、御勢を召されるべうや候ふらん」と申したりければ、将軍、やがて宗堅が館に渡り給ふ。

※宗堅大宮司は氏俊。中世、宗像氏は武将だった。後世、宗像大社が世界遺産になるとは夢にも思わなかったことだろう。

 翌日、少弐入道妙恵がもとへ使ひを立てられて、憑むべき由を仰せられたりければ、妙恵、「子細に及び候はず。妙恵が命の候はん限りは、御方に於て粉骨の忠を致すべき候ふなり」と申して、即ち嫡子少弐太郎頼尚に、若武者300騎差し添へて、将軍の方へぞ進せける。

※少弐氏はいまの武藤氏。宝満山の先、仏頂山の手前を左に折れると、うさぎ道。その道を竈門神社へ向けてくだると里ちかくに有智(うち)山城跡がある。少弐氏の居城である。兵どもが夢の跡、いまはスギかヒノキ林になっている。

2023年9月6日水曜日

慈覚大師・圓仁『入唐求法巡礼行記』

 



 NHK BSで「中国名山紀行」というシリーズ番組をやっている。先日は五台山をやっていた。

五台山は中国山西省にある霊山。ユネスコの世界遺産に登録されている。もちろん5つのピークからなる台地状の山だから五台山。最高峰は北台でなんと標高3058m。

日本には3000m以上の山は、数え方にもよるが21峰(マニアの間では、21サミッツといって、これらを全山登るチャレンジもある。)。3058mというと、南アルプスの塩見岳より1mだけ高く、日本の山であれば15位にランクインする高山だ。

五台山というと、歴史の教科書や仏教の説明資料等でなんどか見た覚えはあった。が、現地の映像は初めてみた。高原状で、日本でいえば、山陰の三瓶山や九州の九重山のような風景だった。

そのような山上に仏教寺院が立ち並ぶさまは聖地と呼ぶにふさわしい。いちどは行ってみたい。

番組が進むと、そのうちの寺の柱になにか書いてある。円仁が来たところという趣旨のことが書いてある。なんと。

円仁は慈覚大師。伝教大師・最澄の弟子で、比叡山・延暦寺3代目の座主。延暦13年(794年)生まれ。といっても、円仁って誰という人がおおかろう。じつは東北ファン、芭蕉ファンとは縁がある。

円仁は、立石寺、中尊寺、毛越寺、瑞巌寺などを創建している。立石寺はセミの声が岩にしみいる寺(1枚目の写真)。中尊寺は金色堂のあるところ(2枚目の写真)。毛越寺は奥州藤原氏とゆかりが深く、瑞巌寺は松島にある。

円仁は2度の失敗ののち、3度目に入唐を果たしている(3度目の正直。最後の遣唐船で。)。その航海や中国の様子を記録したのが『入唐求法巡礼行記』。マルコポーロの『東方見聞録』、玄奘三蔵の『大唐西域記』と並び称される旅行記。

井上靖の『天平の甍』の味わいだが、井上以上に枯れた文体。事実だけを淡々と記述している。

円仁が入唐を果たしたのは、最後の遣唐船と書いたように、唐も末期。仏教も弾圧される混乱の時代だった。

円仁は天台宗だけに当初、天台山をめざした。しかし中国政府の許可がおりず、寄寓先の新羅僧から五台山の存在を教えられる。この助言にしたがい五台山を巡礼することに。1日40Km歩き、約1270kmを58日間で踏破したようだ。すごい。

その後、五台山からは1100km歩いて長安を訪ねている。ここでも廃仏弾圧に遭遇したり、還俗させられたり、苦難の連続。そうしたなか、仏法の新知識や文物の収集に励んでいるから、これまたすごい。求法の気構えを見習いたい。

それではということで帰国しようとしたが、これも許可させない。隠れて帰国しようしたが密告されてダメに。などなど数々の苦労の末に帰国。帰国したときは54歳。もう頭がさがる。

2023年9月4日月曜日

『極楽征夷大将軍』

 


 ジュンク堂へ寄ったら平積みしてあったので、買ってみた。垣根良介の『極楽征夷大将軍』。直木賞受賞作。

日本史のなかで苦手なところは多々あったけれども、そのなかの1つが室町時代。足利義満のころを別として、前半(南北朝時代)も後半(戦国時代)もゴチャゴチャしている。苦手克服のためもあって読んでみようと思った。

去年のNHK大河『鎌倉殿の13人』のつづきということもある。鎌倉時代は源頼朝にはじまり、頼朝の子孫が支配した時代と思ってしまいがちだが違う。

伊豆の地方豪族だった北条家が頼朝の子孫を根絶やしにしてしまう。執権となり、やがて得宗専制政治となった。『鎌倉殿の13人』は有力御家人を北条時宗(小栗旬)がつぎつぎと粛正していくドラマだった。

鎌倉時代末期は、霜月騒動で、安達泰盛まで粛正されてしまう。鎌倉幕府の終わりの始まりは、北条得宗専制が窮まったところからはじまる。

極楽征夷大将軍とは足利尊氏のことである。むかし、足利尊氏といえば、ヒゲをたくわえた騎馬武者姿が印象的。しかしいまではあれは尊氏像ではないとされている。ことほどさように、尊氏の実像はわかりにくい。

尊氏の実像が分かりにくいのは『太平記』にも責任があるように思う。『平家物語』のように名作であれば、誰もが読んで知っているということになったであろう。しかし『太平記』は読みにくい。通読などできない。

足利というぐらいだから関東の人間である。しかし九州とも縁が深い。建武の乱で新田義貞に敗れて後、九州に下ってきて捲土重来を期している。

そこで少弐氏の支援を受けたり、宗像大社を参拝したり、四王寺山麓(原八坊跡)に奇遇したり、多々良川の戦いに勝利したり。おなじみの人名、地名が点在している。これらの点も読めるといいなと思った。

しかし・・。あまり面白くない。垣根良介はきらいではない。『君たちに明日はない』や『光秀の定理』はおもしく読んだ。

『極楽征夷大将軍』のテーマは、帯にあるとおり。やる気なし、使命感なし、執着なしの足利尊氏。簡単にいうと極楽トンボ。なぜこんな人間が天下を獲れてしまったのか?

このようなクエスチョンをたててしまったため、その回答に終始してしまう。尊氏は昼あんどん状態、でも武門の統領としての名声はうなぎのぼり。そうした実像と虚像の乖離をみて弟の直義や執事の高師直がやきもきを繰り返す。・・それの繰り返し。

同時並行で読んでいるのがジョイスの『ユリシーズ』ということもあるだろう。こちらは1行ごとに、スリリングな謎が隠されている。他方『極楽』のほうはいつまで経っても極楽なままだ。後半はちがうかもしれない。期待しよう。なにせ直木賞受賞作なのだから。

2023年9月3日日曜日

如意輪観音

 


 土曜は四王寺山のお鉢めぐり。四王寺山にはお鉢を中心に、33の石仏がおまつりされている。

いずれも観音(菩薩)様である。庶民の旅が簡単ではなかった江戸時代。代表で西国三十三所めぐりをした人が、かの地の土をもちかえり(高校球児が甲子園の土を持ち帰るように)、四王寺山におまつりしたという。

これにより、福岡の人々も遠く関西までいかずとも、西国三十三所めぐりができるようになった。なんちゃってであるが、ないよりよい。

三十三という数字は観音様が三十三の姿に変化されて、世を救うため。四王寺の石仏も、十一面観音、千手観音、聖観音、如意輪観音、馬頭観音などの姿に彫られている。

これまで十一面観音や千手観音を頼もしく思っていた。われわれたくさんの諸衆を救うために、頭一面、手2つではとても心細い。やはり十一面、千手・千眼は必要だろうと。

これに対し、如意輪観音はやや頼りない感じがしていた。左手の平を上に向けて、その上で宝珠や法輪を回しておられる。われわれが手の平の上でコマをまわすような感じ。その法輪を自在に回すから、如意輪観音。

如意宝珠はすべての願いをかなえ、法輪はわれわれの煩悩を破壊するという。この日はなぜか、如意輪観音さまが頼りがいのある存在に思えた。心が弱っていたのだろうか。