2023年11月6日月曜日

ワンゲルOB会 42周年?

 




 先日は声をかけてもらったので、大学ワンゲルOB会に参加してきた。場所はくじゅう南登山口にあるキャンプ場に1泊して、翌日は牧ノ戸から中岳(九州本土最高峰)往復である。

どう数えればよいのだろう?64歳ー22歳として42周年? 中途はんぱである。そのわけは5年前にアラ還OB会をやったからだ(大学の部活だから年齢にバラつきがある。)。それから5年後だから今年になった。同期のOB会としては通算4回目と思う。

むかしは家族連れで参加した。子どもどうし楽しそうに遊んでいた。

9人の参加。クラブ内で結婚した配偶者2人を含むので、ややすくない。リタイアしたメンバーもいて働いているメンバーと半々ぐらいか。なかには自身もしくは身内が大病、あるいは大病後という。この歳になればある程度のリスクはあるだろうが、それにしても多すぎるような気がする。

日本百名山達成まであと4座というメンバーもいた。残っているのは北海道の十勝岳、トムラウシ山、北アルプスの薬師岳、黒部五郎だそうだ。来年7月に前者、8月に後者を登る予定という。なんなら一緒に登って祝ってやりたいが、いずれもそれなりの山が残ってしまっている。

その他のメンバーも1人をのぞけば、いまでも山歩きを楽しんでいるようだ。1人は前回から1度も登っておらず5年ぶりだそう。それでもさすがに足運びはしっかりしている。

とまあ、われわれのほうはここには書けないことも含め、いろいろとあった。が、山はいままでと変わらず、美しいよそおいを見せてくれた。

2023年11月5日日曜日

ブラタモリ「敦賀~すべての道は敦賀に通ず?~」

 


 ブラタモリで敦賀をやっていた。本ブログでとりあげた秀吉・家康、芭蕉・おくの細道や銀河鉄道999的世界に一切触れることはなく。

やはり「道」という観点から編集したせいだろうか。「道」という観点からすればなおさら秀吉・家康、芭蕉・おくの細道、銀河鉄道に触れてもよさそうなものなのに。監修を受けた研究者がみな畑違いだったせいだろうか。

敦賀湾から海をのぞむと水平線が見えない。つまり、北側、東側、西側の3方を海に囲まれている(すこし北上すると北西側が日本海にひらけている。)。古代から天然の良港として発達してきた。

近世では北前船が行き交い、昆布が名物となったことが番組でよく分かった。北方の昆布が敦賀で名物となったのは、近世までは日本海側が物資の大動脈だったからである。

そのことは、いちど秋田県の酒田にいけばよくわかる。酒田は庄内平野の北端にある。往時、酒田の商人は庄内平野の米を上方へ運んで巨万の富を得たのである。そのさまは、井原西鶴が『日本永代蔵』に活写したとおりである。

もちろん、その繁栄がそのままいまでもみられるわけではない。だけれども、山居倉庫として残っており、往時をしのぶことができる。さらには、吉永小百合が歩いた空気も感じられるかもしれない。

https://ameblo.jp/yu-tu-0101/image-12342041718-14106270310.html

さて幕末、列強と下関線戦争が勃発するや、京・大坂への米の搬入をどうするかという問題を生じ、敦賀から琵琶湖へむけて運河を掘ったようだ。

明治期、運河に代わり、鉄道が。新橋-横浜間と同時に計画されたというから、その重要性は明らか。

鉄道の停車場は金ヶ崎にあったようだ。『どうする家康』放映中でもあったし、秀吉・家康の退却戦のエピソードの紹介があると思ったが、なし。

鉄道から先、船はどこへ向かったかというとウラジオストック。そこからシベリア鉄道で欧州全域に向かうことができたようだ。

①日本国内から敦賀までの鉄道キップ、②敦賀からウラジオストックまでの船券、③ウラジオストックからベルリンまでの鉄道キップが1枚となったキップが紹介されていた。船便の半分くらいの日数でヨーロッパへ行けたようである。

日本からロシアを経てヨーロッパへ自由に行き来できた時代の貴重な歴史的なお宝である。いまは飛行機でされ自由に飛ぶことができない。タイトルの「すべての道は敦賀に通ず?」に「?」とあるのはこの意味でもあるだろうか?

2023年10月25日水曜日

トランスジェンダー性別変更、生殖不能の手術要件は違憲

 

 「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」というのがある。

https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=415AC0100000111

同法によれば、「性同一性障害者」とは、生物学的には性別が明らかであるにもかかわらず、心理的にはそれと別の性別(他の性別)であるとの持続的な確信を持ち、かつ、自己を身体的及び社会的に他の性別に適合させようとする意思を持つ者であって、そのことについての診断を的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師の一般に認められている医学的知見に基づき診断の一致しているものをいう(2条)。

一読して理解が困難な定義である。次の3つの要件を要求しているからだ。

①生物学的には性別が明らかであるにもかかわらず、心理的にはそれと別の性別(他の性別)であるとの持続的な確信を持ち
②自己を身体的及び社会的に他の性別に適合させようとする意思を持つ者
③そのことについての診断を的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師の一般に認められている医学的知見に基づき診断の一致しているもの

自分は①②の要件を欠くのだけれども、仮に①②の要件を充たすとして、③の要件だけでとても高いハードルに感じられる。

たとえば、交通事故の後遺症診断というのは、場合によっては数千万円の帰結をもたらす。けれども、そのことについての診断を的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師の一般に認められている医学的知見に基づく診断などは要求されていない。2人以上の医師の診断といわれただけで、どの病院に行けばよいのか途方に暮れる。

同法はさらに、その性別の取扱いの変更について、家庭裁判所の審判を求めている(3条)。その要件について、5つの要件を定めている(1項)。

一 十八歳以上であること。
二 現に婚姻をしていないこと。
三 現に未成年の子がいないこと。
四 生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。
五 その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。

この請求をするには、その診断の結果並びに治療の経過及び結果その他の厚生労働省令で定める事項が記載された医師の診断書を提出しなければならない(2項)。

昨25日、最高裁(大法廷判決)は、このうち四号の要件について、法令違憲とした。この要件が「強度の身体的侵襲である手術を受けるか、性自認に従った法令上の取り扱いを受ける重要な法的利益を放棄するかという、二者択一を迫っている」のであり、「意に反して身体への侵襲を受けない自由を侵害し、憲法13条に違反して無効」であるとした(全員一致)。

https://www.asahi.com/articles/ASRBP7T8YRBNUTIL009.html

NHKの番組で手術を受けた人の映像を見た。術野にいびつな醜状痕が残っていた。重大な決心がなければとても受けられるようなものではない。外見だけでなく、ホルモン異常などの後遺障害もありうるという。強度の身体的侵襲である。

特例法の制定は平成15年、20年前である。法制定以降の社会の変化、医学的知見の進展なども踏まえ、判断したという。

最高裁は2019年にもこの点について判断し、「現時点で」合憲と判断している。つまり、この4年間における「社会の変化」が大きかったということである。この間におけるLGBTQ運動前進の成果といってよかろう。関係者の長年の努力に敬意を表したい。

ただし、最高裁は、五号の要件については判断していない、高裁に差し戻している。たたかいは続く。

※憲法13条。すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

※※12条。この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。

※※※97条。この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

2023年10月24日火曜日

太宰府路散策(5)天満宮、竈門神社

 

https://www.google.com/maps/place/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E5%BA%9C%E5%B8%82/@33.5169769,130.5252669,17.25z/data=!4m6!3m5!1s0x35419bb94ea9da4d:0x420ea1837d378fc4!8m2!3d33.5127734!4d130.5239685!16zL20vMDF3cTE1?entry=ttu 

 観世音寺から天満宮まではすこし左折や右折をする必要がある。が、標識にしたがって行けば間違うことはないだろう。旭地蔵尊前を右折、御笠川をわたって左折できれば、大駐車場が見えてくるだろう。

大駐車場から参道へ入ると、いまなら人がいっぱいである。インバウンドは回復し、参道は外国語がいきかっている。韓国語や中国語が主である。中国語は大陸のほうではなく、台湾のかたたちである。

昼食どきだけれど、参道の店はどこも人がいっぱい。本日最大のミッションは鯉のエサやりである。そのため御神牛を経て、太鼓橋を右へ行き、うぐいす茶屋に向かう。ここで昼食をとることにした。ほどほどの混み具合である。

それぞれ山形豚のカツ丼や、釜揚げうどんを注文して食す。うまし。池では花菖蒲が枯れている。鵜が魚を捕っていた。長良川のように吐き出させられる様子はない。

その後は、お待ちかねの鯉の餌やりである。長い棒状の麩を買い、ちぎっては鯉に投げる。

横からのっそりとカメもやってくる。鯉たちの敏捷さにくらべ、動きが緩慢すぎる。そこを子どもたちがなんとか食べさせようとする。子どもたちとカメの連合群と鯉たちとの競いあい。ミッションコンプリート。大満足。

天満宮の本殿はいま修復中である。草でデザインされた仮宮がむしろ斬新でよい。古新道の山や磐座をご神体とする時代に還ったようだ。

ポツポツとくるなか、宮前からコミュニティバスに乗ることにした。バスは渋滞のせいか20分以上遅刻してきた。インバウンドとおぼしき人たちが5、6人うしろに列をつくる。

バスはほどなくして内山に着く。宝満山の麓であり、登山口もある。神社の階段を登る。秋が深まれば紅葉の名所である。が、いまだ色づきはわずかである。階段が尽きると、竈門神社である。

神様にはもうしわけないが、まず絵馬の納所にむかう。子どもたちが喜ぶから。期待どおり、『鬼滅の刃』の主人公たちを描いた絵馬が並んでいる。いずれおとらぬ名作ぞろいだ。

そう、わざわざバスに乗ってやってきたのは竈門神社が『鬼滅の刃』の聖地とされているからだ。別に作者が竈門神社がそうであると認めたわけではない。しかし、そうではなかろうかという情況証拠はそろっている。

まず、鬼滅の主人公の名だ。ずばり竈門炭治郎(かまどたんじろう)という。これだけだと証拠として十分でない。大分県や筑後のほうにも竈門神社があるそうだから。

つぎに、竈門神社が大宰府政庁の鬼門を守っていることがなにより重要だ。鬼滅は文字どおり、鬼退治の物語だ。竈門神社は、鬼が北東の方角から侵入してこないよう、これを防いでいる。

神社は政庁からみて北東、つまり、鬼門の方角にある。鬼門の方角とは牛寅の方角である。時計の針の一番上=0時から子、牛、寅、卯とくるから、右上45度は1時と2時の間になり、牛寅の方角なのである。

古来、鬼は牛寅の方角から来ることになっている。中国では騎馬民族が東北からやってくることは分かるが、日本のばあい何がやってくるのだろう?

ともあれ、鬼の頭に牛のような角があり、寅のパンツをはいているのは、牛寅の方角からやってくるからだ。

さらなる根拠としては、鬼滅の作者が福岡県出身であること。これで県外の候補地は除けるという。

作者がどの程度詳しいか分からないのであるが、修験道のイメージもあるかもしれない。修験道は天狗や修行と縁がありるから。

鬼とは何か?伝染病や疫病がそうであるという説がある。ならば、コロナや各種ウィルスから子どもたちを守ってやってくだされ。

2023年10月23日月曜日

太宰府路散策(4)四王寺山

 

 太宰府路は、北をのぞめば、どこからでも四王寺山が見える。観世音寺横のコスモス畑からとくに美しい。

四王寺山は標高400Mちょっとだ。最高峰の大城山のほか、大原山、岩屋山、水瓶山の四峰からなる。

四王寺と呼ばれるのは古代、仏教の守護神である四天王がまつられたからだろう。四天王は須弥山(しゅみせん)で帝釈天(たいしゃくてん)を守護しているという。帝釈天というのは寅さんに出てくるアレである。

須弥山は世界の中心にそびれる高山。広島・宮島の最高峰である弥山(みせん)や、仏像の基壇を須弥壇(しゅみだん)と呼ぶ由来である。

四王寺山の山頂には、いまでも増長天、広目天の礎石、毘沙門堂が残されている。増長天は南、広目天は西、毘沙門天は北の守護神。

東をまもる持国天は大原山のあたり、いまは15番札所・十一面観音石像があるのみである。

四天王像としては東大寺戒壇院のものが有名であり、大好きである。四人組の強者のことを四天王と名付けて恐れ敬うのはいまもおなじ。われわれの世代ではアタックナンバーワンに出てきた○○四天王にしびれたものである。

北方の守護神である毘沙門天は、四天王の一角をなすときは多聞天という。独尊として崇拝されるときに毘沙門天という。戦の神様。強烈に戦がうまかったという上杉謙信は毘沙門天を崇拝していたという。

大和朝廷は百済に加勢して白村江で唐・新羅連合群に敗れた。その後、唐・新羅による列島侵略を心配して、四王寺山には朝鮮式山城が築かれた。大野城という。いまでも山頂には当時の倉庫跡や堤防跡が残されている。

大野城は水城や基山とともに、大宰府政庁をまもる壮大な防衛施設となっている。重機などなかった古代のことだから、唐・新羅による侵略の恐怖が強烈であったことがうかがえる。

物理的な防御だけではとんでもなく心配だったので、四天王の力にすがりたかったのだろう。

いまは写真のとおり、のどか。やはり平和がいちばんである。

2023年10月19日木曜日

太宰府路散策(3)戒壇院、観世音寺

 

 学業院跡から、さらに東へ向かう。戒壇院、観世音寺がみえている。その向こうに宝満山。
 https://www.google.com/maps/place/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E5%BA%9C%E5%B8%82/@33.5149402,130.5201245,18.5z/data=!4m6!3m5!1s0x35419bb94ea9da4d:0x420ea1837d378fc4!8m2!3d33.5127734!4d130.5239685!16zL20vMDF3cTE1?entry=ttu

戒壇院と観世音寺の間の路を右折。戒壇院へ向かうのだが、その前・右手に玄坊の墓がある。玄坊は遣唐使とともに学問僧として入唐。玄宗皇帝に才能を認められた。

帰国後、聖武天皇の信頼もあつく、橘諸兄政権の中枢として吉備真備とともに出世。しかし橘諸兄が権勢をうしない、筑紫の観世音寺に左遷、この地で没した。人格的な批判もおおく、怪異な伝承が多い。かつて政権中枢を担ったわりには小さな墓である。

墓のまえをさらに進むと、右手に戒壇院の裏口がある。東大寺戒壇院などとともに、天下三戒壇の一つ。奈良時代、授戒制度を確立するため、唐から鑑真を招聘した。井上靖の小説『天平の甍』に詳しい。

東大寺の戒壇院は四天王像がすばらしいが、残念ながら筑紫戒壇院にはそのような四天王像は残されていないようである。裏口すぐには菩提樹が植えられている。この日は座禅がおこなわれていたようで、静かにと注意書きがあった。

戒壇院の裏口を出ると、正面すぐが観世音寺の側面入口である。大学生のゼミとおぼしき若い人たちが参拝していた。

観世音寺は、天智天皇が創建した。唐・新羅連合群とたたかう百済を救援するため日本も朝鮮半島に派兵したが、白村江の戦いで敗れた。そのため防衛のために築かれたのが大野城や水城である。

古代のことであるから、いまのように通信手段が整っていない。日本政府は大和の地から采配を振るっていたのでは勝てる戦も勝てない。そのため、前線にちかい九州の地まで出張ってきていた。

その地で斉明天皇が亡くなった。その追善供養のため、皇太子であった中大兄皇子が創建したという。

古くは大きな寺だったらしく、『源氏物語』にもでてくる(あまりよい文脈ではない)が、戦火などでいくたびか焼亡し、いまはそれほどの偉容はない。

寺に向かって右手には日本最古の梵鐘がある(いや、あった。いまは博物館に保存されている。)。国宝である。あれ?日本最古の鐘は妙心寺ではなかったっけ?そのとおり、兄弟鐘である。

糟屋郡多々良町(現、東区)で製造されたという。多々良はたたら製鉄のたたらである。もののけ姫にでてきた「たたら場」と同じ語源である。「たたらを踏む」などというが、たたら製鉄の際の動作から来ている。

多々良町を多々良川が流れている。中央での戦いに敗れた足利尊氏は九州に流れてきて、捲土重来を期していた。かれは多々良川の戦いに勝利し、ふたたび中央に攻め上り、後醍醐天皇側から政権を奪取することに成功することになる。

梵鐘の奥は宝蔵である。観世音寺というだけあって、巨大な十一面観音、馬頭観音、不空羂索観音が偉容を誇っている。大きさは東大寺の不空羂索観音とおなじくらいだと思う。

https://www.fukuoka-bunkazai.jp/frmDetail.aspx?db=1&id=239

このあたり紅葉するとナンキンハゼが美しい。いまの時期はコスモスが青空に映え、親子連れが記念撮影をしていた。

2023年10月18日水曜日

太宰府路散策(2)展示館、学業院跡

          


 政庁跡には礎石が置かれているのであるが、レプリカである。むかしはプラスティック製のものを置いていてブカブカしている時もあった。

実物は2mほど地下にある。発掘調査をおこない、2mほど掘り下げたところ、いま見るような礎石群があらわれたのである。つまり、年間2mmほどずつ土砂が堆積を繰り返していて、約1000年の間に礎石群のうえに2mほどの土砂が堆積しているのである。

そのことは、南西角にある展示館にいけばよく分かる(いつの間にか有料になっていたが。)。館の内部、左右は地層を掘り下げたままになっていて、掘るとどうなるかがよく分かる展示になっている。2mほど地下にゴロリと置かれたままの礎石や溝の遺構をみることができる。

展示館のまえで休憩していると、高齢の男性、つづいて女性が設置されている台の上でスタンプを押していく。訊くと太宰府市がおこなっている事業で、スタンプが集まると3000円の商品券やお米がもらえるのだそう。なるほど。われわれはアプリの景品を期待して歩いているところ、太宰府市の高齢者は商品券やお米を期待して歩いているのか。

展示館の北西角には、都をしのんで歌った小野老の有名な歌の碑がある。

 あをによし奈良の都は咲く花の 薫うがごとく今盛りなり

展示館の前を通って東へ向かう。この通りにはセンダンが植えられている。またの名を楝(あふち)の木。おそらく筑前守であった山上憶良のこの歌にちなむものだろう。

 妹が見し楝の花は散りぬべし 我が泣く涙いまだ干ぬ

これは大伴旅人の妻が亡くなったときに、旅人の気持ちになって詠んだ歌。四王寺山の霧に仮託したつぎの歌もおなじ。

 大野山霧立ち渡るわが嘆く息嘯の風に霧立ちわたる 

通りの左手には故冨永朝堂先生のお宅がある。太宰府天満宮・延寿王院前の「神牛」の作者である。

そのあたりからは宝満山が大きくのぞめるようになる。ことしは国の史跡に指定されて10年となる。大宰府政庁跡の東北、鬼門の方角である。

平安京の鬼門は比叡山であり、鬼門の押さえとして延暦寺が置かれた。大宰府の鬼門は宝満山であり、鬼門の押さえとして竈門山寺・竈門神社が置かれている。

さらに東に行くと学業院跡である(国史跡)。古代、大宰府の官人要請が行われたという。太宰府は現代、学園都市になっているが、このような伝統のゆえであろうか、それとも天満宮のご利益を期待してのことであろうか。

手前には、山上憶良の有名な子等を思ふ歌の碑が建っている。親子の情愛は古代から変わりはない。

 瓜食めば子供念ほゆ 栗食めばまして偲はゆ 何処より来たりしものぞ 眼交にもとな懸りて 安眠し寝さぬ

 銀も金も玉も何せむに まされる宝子に如かめやも

学校で習った。小6に訊くも習っていないという。中学で習ったのだったか。

またそこには天満宮の斎田があり、ちょうどこの日、抜穂祭がおこなわれていた。このごろはコンバインによる収穫風景しかおめにかからなくなったが、むかしながらの鎌による稲刈り。なつかしい。

その先入ったところは昨年、アナグマ三兄弟の巣があったところだ。